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山本 孝神父

 

 司祭になったばかりの頃から旭川出身の鈴木央神父さんと年齢の近い若い神父たちは、何かの理由で旭川に集まった時、よく鈴木神父さんのお母さんから招かれて、鈴木家でラーメンなどをご馳走になっていました。先日、五条教会の鈴木基子さんが亡くなりました。教会報の担当者から、一番繋がりが深かった山本神父さんから何か追悼の言葉を書いて欲しいと頼まれました。わたしは若い頃から鈴木家にお邪魔していて、神父さんのお兄さんの娘である基子さんが子供の頃から知っていました。またわたしが五条教会にいた頃、彼女は中学・高校生でした。成人式の日に着物姿を見せに来てくれました。その後わたしは滝川や留萌の教会を担当して旭川に戻ってきました。令和に年号が代わった年に4回目と五回目の脳梗塞で入院して、その後車椅子の生活になりました。二年くらいしてから、日曜日の教会のミサを任せてもらえるようになりました。わたしが五条教会に行った時には、いつも彼女が車椅子を押してくれて、祭服を着る手伝いをしてくれて聖堂の前まで連れて行ってくれました。またその日のミサのオルガンも担当してくれていました。5月17日が彼女の46歳の誕生日でした。わたしはお祝いのメールを送りました。朝送ったメールが夕方に既読になったのでいつもの基子さんと違うと思いました。

 そして翌日、「神父様、わたしガンになってしまって、子宮体がんの治療をずーっとしてきたけれど、4月の抗がん剤の副作用がかなり強く、そこからいっきに体調が悪くなり、入院退院を繰り返しています!!厚生病院の緩和ケア病棟なのですが、ホテルみたいな部屋で、贅沢な生活させてもらっています(笑)」これが最後のメールでした。

いまは緩和ケア病棟よりもっと贅沢な楽しい生活しているでしょうね。わたしの方が先に向こうに行くので、彼女がきたらあちこち案内してやろうと思っていたのに先を越されてしまいました。

彼女は5月30日に召されました。亡くなったばかりの頃は悲しくてどうにもならなかったけど、しばらくしていまは「キリストとともに死ぬなら、キリストとともに生きるだろう(2テモテ2.11)とパウロが言っているように、彼女はキリストとともに(教会とともに)生きてきたので、いまキリストとともに生きているだろうと確信しています。教会のオルガンと教会学校の世話をしていた彼女は、天国の聖歌隊のオルガンを担当して天使たちと一緒に神さまの賛美を歌っているかもしれないです。わたしはお通夜や葬儀ミサの歌をみんなが頑張って歌ってくれていて、自分の葬儀の時も「アヴェ・ベールム・コルプス」などを歌って欲しいなと思いました。基子さんはいつも控えめで、あなたを悪く言う人はあまりいません。

ほんとうにたくさんの愛をありがとうございました。

安らかにおやすみください。

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