―私の愛を信じる人は多いが、私の憐れみを信じる人は少ない―
マイケル・J神父さんが「罪がわからないと言うことは、聖霊を知らないことです」と言っていたことを思い出します。記憶に残っている言葉です。私はまだキリストと出会っていない自分を感じました。「邂逅(1)」のような大いなる出会いが必要です。
罪がわからないとは、自分を知らないことです。自分を知っているように見えても、見たくない真相を避けているようなのです。
人間的慰めでは癒されないことを、感じているのです。
罪の問題とは、自分との「巡り合い」でもあります。
聖霊の助け無しには、ほんとうの自分と安心して出会うことができないのです。
キリストを必要としている自分に気づいてこそ、内面の醜い部分にも直面できるのです。
「回心」は神の憐れみを賜物として素直に受けるプロセスをたどります。神は本質的に憐れみの神です。
それで「私を信じる人は多いが、私の憐れみを信じる人は少ない(ヨセファ・メネンデスへのイエスの言葉)」を覚えていたいと思います。
憐れみをかけることこそ、神の最高の喜びなのです。神は「仕掛け人」かのように、個人的に私に働きかけるのです。
「お前のあの弟は死んでいたのに生き返った(ルカ15:32)と言われる神は私を生き返らせる神です。気づきがありますように!
1・最近「ゆるしの秘跡」を受けたことがありますか?前回はいつ
でしたか?
2・赦しを受ける時の気持ちは、どのようなものでしたか?
惨めな?うれしい?
3・罪を赦していただくことに、喜びを覚えますか?
喜べない?恥ずかしい?
聖書箇所
☆サマリアの女性に対して(ヨハネ 4:1-42)
☆ザアカイに対して(ルカ 19:1ー10)
☆放蕩息子のたとえの兄に対して(ルカ 15:11-32)
(1)邂逅・・・偶然に出会うこと。めぐり合うこと。