リジュ―のテレーズ(幼きイエズスの聖テレジア)
1873年1月2日、フランスのアランソン市で生まれました。
父はルイ・マルタン、母はマリー・アゼリ・ゲラン。
子供は9人生まれましたが、兄二人と姉二人は小さいうちに亡くなりました。
そして、最後に生まれたのが、本名マリー・フランソワーズ・テレーズ・マルタン、
つまり19世紀フランスのカルメル会修道女、聖テレーズです。
記念日は10月1日。
テレーズが4歳のときに、もともと体が弱かった母が病死、精神的に耐え切れなく
なった父は(時計屋)店をたたみ、娘たちをつれて妻の実家ゲラン家がある
ノルマンディーのリジュ―へと移り住みました。
1882年、テレーズが9歳のとき、それまで母親代わりを務めていた次姉の
ポリーヌがリジューのカルメル会修道院に入り母親に次いで、第2の母で
あった姉を失うという体験は、幼いテレーズの心に大きな影響を与えました。
この頃からテレーズは、修道女になりたいという希望を繰り返し訴えるよう
になります。1886年に2人の姉マリーとレオニーも修道院に入ったことで、
その望みがいっそう強くなりました。
1887年、14歳になったテレーズはカルメル会入会を願いました。父は許してくれましたが、修道院の院長や指導司祭に若さを理由に断られ、ついでバイウの司教に許可を得ようとしたが、やはり年齢を理由に許可されませんでした。
同年10月、テレーズが15歳の時、父や姉たちと共にローマへの巡礼団に加わりそこでローマ教皇レオ13世に訴えて直接カルメル会入会の特別許可を願いましたが、教皇はやはり司教と指導司祭の薦めに従うようにと穏やかにテレーズを諭しました。
テレーズが16歳になり、司教がようやく修道院入りを許可したため、テレーズは1889年4月にカルメル会に入会、「幼きイエスのテレーズ」という修道名を受けます。このとき、すでに2人の姉(マリー、ポリーヌ)がカルメル会に入会していました。かねてから体調がすぐれず、精神を病む兆候を見せていた父が心臓発作に見舞われ、療養所に入り、父はここで最期の3年を過ごすことになります。
1890年9月8日、最初の修道誓願を宣立したテレーズは、修道名に「聖なる御顔」(la Sainte Face)という言葉を付け加えました。
父の最晩年は発作の影響で下半身不随になっており、精神的に混乱したり、うわごとをいうことが多かった、父ルイ1894年7月29日、死去しました。
最後まで父に付き添っていた3歳上の姉セリーヌもカルメル会に入会しました。
聖母訪問会に入っていたレオニーを含め、5人姉妹全員が修道女にな。従姉妹マリー・ゲランもカルメル会に入り、テレーズは副修練長として彼女らを指導する喜びを得ます。
しかし、もともと体が弱く、家族から結核菌を受け継いでいたと思われるテレーズは1896年4月に喀血。そのまま病勢が進み、1897年9月30日に姉たちに見守られながら24歳の若さで亡くなりました。
彼女は海外宣教に強い関心があり、インドシナ宣教の望みがあったが、それは果たされませんでした。
死後、自叙伝が出版されたことでテレーズの名がフランスのみならず、ヨーロッパ中に知れ渡り、その親しみやすい思想によって人気が高まります。
1914年6月10日、教皇ピウス6世はテレーズの列福調査を進める宣言に署名
した、ベディクト15世は、通常死後50年たたないと列聖はできないという
条件を、テレーズに限って特別に緩和することを決定しました。
しかしこれは異例のことです。
1925年、テレーズは死後わずか28年にして教皇ピウス15世の手で列聖される。
4人の姉たちはみな長命であったため、実の妹がカトリックの福者、聖人に
挙げられてゆくのを目の当たりにすることになりました。
リジューのテレーズは病人、パイロットや花屋、宣教師、ロシアの他に、
子どもや弱い者の守護聖人になっています。彼女はジャンヌ・ダルクに次いで
フランスの第2の守護聖人とされ、宣教師のために祈っていたことから、
1927年には海外宣教者の守護聖人となりました。
1997年10月19日には教皇ヨハネ・パウロ2世によって深い霊性と思想が
たたえられて「教会博士」に加えられました。教会博士の称号を与えられ
ている聖人は現在では33人おり、女性としてはアビラのテレサ、シエナのカタリナに続いて3人目です。